昭和五十四年十二月六日 朝の御理解

 御理解第七十節 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」


 教祖金光大神様が教えられる教えほど人間が万物の霊長としての値打ちを、いよいよ高めて行く教え、また人間が万物の霊長としての生き方を心憎いまでに教えられておるみ教えは、まず他にはなかろうと思います。中でも最近言われる合楽理念に基づく生き方というのは、もう一から千までが万物を観て道理に合う生き方を求め続けておるのが合楽理念です、ね。
 ですから天地が自由二成程四のおかげとも、又は天地のリズムを私共の生活の上に、ま、これは寝ておっても覚めておっても頂き続けれるような手立てが合楽理念によって出来てくる。だから兎に角合楽理念はそういう意味に於てです、おかしいなあとか道理に合わない、というところが、も、さらさらないです、ね。只ちょっと謂うならばあまりにも合いすぎておるから、人間ではわからない、というようなところがあるぐらいな事でしょうね、そうですよ、ね。ですからいよいよもって、いわゆる霊長としての値打ちをね、高めていく事です。
 ま、万物の霊長を、も、それこそ完璧に霊長としての値打ちを発揮されたのが教祖金光大神様だと思うです。不自然というものがない、ね。それこそ大自然との、それこそ水も漏らさぬような生き方受け方で調和を保って、また調和のとれた生き方をなさったんです。私共はそこんところが段々いうならば、本音と建て前と、まあ最近言われます、これが本当、万物の霊長としてこうする事が本当なんだけれども、ね。
 これが建て前ですけれども、ね。本音の方は、なかなかそうはいかんところがある、そこをお取次を頂いてコントロールさせて頂いて自分で自分の心を、いうならば支えていく、という生き方。そこには出来んでも出来たかのようにしておかげを下さる、というおかげがお取次によって現れてくるおかげです、ね。
 昨日壮年部会でした。もういつも思うんですけども、昨夜なんかは、もう本当に素晴らしい、これはだから私だけが素晴らしい素晴らしいと、これは言うから皆さんどうか思いなさったかも、私はそう思うんです。もう七、八名の方が発表されましたが、どの方の話を聞いても素晴らしい、も、本当に素晴らしい。だから素晴らしくないような顔の人を見ると、あんたどうの、素晴らしうないの、とこう言うたいような感じがする。
 四日の神愛会の時に郷ノ浦の末永先生がその事を言っておられました。あるお説教の時に神様からお知らせを頂いて、石炭のお知らせを頂いた。その石炭にマッチで火ばつけよるところを頂いた、と言うのです。石炭にマッチではとても火はつきゃせんから、これは真木が足りないなあ、と。いわゆる真木とは真心、自分の心。その真木を寄せておいて、ね。
 そこに、ま、カンナくずのようなものがあったりして、それに火をつけて、真木から石炭に火をつけたら、もうそれこそ、どういういうなら、ま、ママになるおかげ、いうならば水ならば湯になるだろう、お米なら御飯になるだろう、というお知らせを頂かれて、お説教をお月次祭の時されたそうです。そしてお説教終わられたら、裏の方に先生今こげなお供えを頂きました、と言うて、初めて郷ノ浦教会が始まって、初めて木炭がもう、それこそ信心の喜びと驚きというのはそういう時です。もう驚きです。
 今いうならば石炭という、ママになる為には石炭が真っ黒しておる、苦労という、ま、修行がいるんだ、とその修行だけじゃいかん。それには真心集めて、そしてそれに火をかける事によって、その石炭が燃え出したら、んなら水なら湯になる、米なら御飯になるというようなです。おかげを受けられる、という話をしたら、裏には初めて木炭を一俵お供えが来とった。
 それでまた裏から信者さん立ちが出て来てから、今こうだった、と、本当に神様の間違いなさには畏れ入るねえ、と言うたげなけども、信者がしっぱらまーく、しとるげなもん。それでこれを聞いてからあんたどん驚観か、と言うて、ま、言うたという話をしとりますがね。私もそれを日々感じます。もう本当に神様の御演出というか、畏れ入ってしまうなあ、と、ね。
 だからその折角の神様の、そういう素晴らしい御演出の中にはおかげを頂いておる、という事がです、ね。いうならば信心の喜びと驚きを感ずる時に、初めて神様も、いうならば、ま、働きがいがあった、と、ま、思うて下さる時じゃないでしょうか。おかげを、こんな素晴らしいおかげを見せておっても、しっぱらまーこして、それこそ蛙(びき)に小便まりかけたごたる顔してから、ち。昔、私もそんなこと言いよりましたよ。
 お説教を一生懸命さして頂いておると、もういっちょん有難うなかち、言うごた顔で、みんながしとるとね、私がそんな言いよった。もうあんた達ばっかりはほんなこて、びきに小便まりかけたごたる顔してから、ち、いうような事を言いよったです。しっぱらまーこ、しとるという事です。結局その心がね、有難い、というものに浸ってないわけです。ただ時分の悩みとか心配な事だけで腹が、心の中が一杯なもんですから、そういう神様の間違いない働きを頂いておってもです、ね。それが驚きになってこないんです。
 富永先生ところのお土地を購入される時に、その大坪町という所にあったお土地が三反、と言うて来た時に、も、これでおかげ頂いた、と富永先生が思うた、と言う、ね。私も驚きを感じました。大坪町という所に今度、お広前が建つわけなんです。昨日のお話の中に熊本の緒方さんの話をしましたね。子供が一時間半も気絶状態になって病院に担ぎ込まれた。
 してからぼんやりわかるごつなって一人で帰ってきた。お医者はまた来いち言うた、ところが眼の後がどうか狂ったようになっとるから、暫く入院しなければいけない、という事になった。それでも子供が言う事には、ね。僕がその大きな木がある。その木にぶっつけて木に寄りかかるようにしてから倒れとったそうです。それを病院に連れて行ったら、したらその病院の名前がなんと金光病院やった、と言うて喜んだ、という、子供が、ね。
 皆さんその話を聞いてから、はあ神様の御演出の中にある人だなあ、本当それを実感、ほうち言うごたる顔しとる人もあるしね。そういう時なんですよ。神様の働きに、それこそ喜びと驚きがなからなければ御道の信心はほんなもんじゃないです、ね。最近は、その驚きを感じるような働きすらがなくなってるです。もう合楽には驚こうと思うたら、驚こうち思うたらち、心がね、あのそういう有難い状態であるならね、いつも畏れ入るなあ、と皆が言うのはそれなんです。驚きなんです、ね。
 そしたら主人のお友達の方が、その小さいその病院ではなんだから、大きな病院の方へ紹介するから行け、と言われたから話たら、そこの病院長先生も、それをカルテから何から向うの病院へ送って下さった。そして向うにやらせて頂いて、もういよいよ精密検査をさして頂いたら、全然異常がなかったとして入院せなんはずのつが入院せんで昨日帰ってきた、という御礼の電話がかかってきたんです、ね。成程金光病院であったはずと、言う事がわかるでしょうが、ね。ま、余談になりましたけれどもです。人間が万物の霊長である、ね。
 そのいうならば霊長としての値打ちを、いよいよ作っていく事が信心には、信心の驚きと喜びがね。日々あるようなあり方の中にしか生まれて来ないです、ね。私は、昨日の壮年部会の人の一人一人のお話を頂いて、も、本当に素晴らしい、こげな素晴らしいのに、みんな壮年部会の方達がたびたび出て来んのはおしいなあ、と。おかげが頂きたい、信心が頂きたい、と言いながら、本当にそういう素晴らしい研修の場に、どうかして出てくるような手立てを考えようとは思わんのだろうか。 それでおかげは頂きたい、ではやはりちったおかしいよ、ちったまちごうとるよ、という事になるのです。おかげの頂けれる場。
 昨日、山口支部の浅野さんの長男の福岡におられます方がです、ね。兎に角、ま、何をしてもいかん、何をしても失敗、今度もまた失敗。それでもう家も次々変わって、先日からお家を変わらなきゃいけん、と言うてまあ家を世話するところに頼んどったら連れて行ってもらった。どうもここの町に一遍来たごたる、と思ってから行きよったげなら、その中に入って見てからげなもん。
 戎浦さんが前に住んどった家じゃったげな。その時に戎浦さんの移転の時に、ね。加勢に行っとったから知っとったわけ。何でも片づいとるもんだから、ちょっとピンと来なかったけど中に入って見て、これはあんたもと戎浦という人が住んどった家じゃなかですか、ち言うたら、はいそうですよ、じゃった。まあそれこそ何千軒何万軒家があるかわからないけども、例えばそういう何でもない事なんだ、大体は。
 けどもそういう働きが驚きなんです。もう畏れ入るなあと、いう事なんですよ。そういう事が只プラスならなければ、おかげにならなければ、自分のぶのよかごつならなければおかげじゃない、といったような考え方じゃおかげにならんです。そういう間違いのない働きがいつも自分の周辺に一杯そのあっておる、というような事がです、ね。いうならば霊長としての値打ちを、いよいよ磨き上げてもいこう。霊長としての値打ちも作っていこう、と、ね。
 先日青年会の時に講師で見えた先生が価値観という事の話をなさいました。人の価値観、神の価値観といったような事をね。昨日私その浅野さんの、もう何をしてもいけんという事の。だからもうおかげおかげじゃなくて、本気で信心をいっちょ頂きなさい、と。今日は壮年部会だから、幸いもう丁度夜の御祈念でしたから一緒に参加しなさい、と言うて一緒に入られました。
 『その方の事を私、お願いさしてもらいよりましたら、「仁」という字を頂いた。ニン偏に二の字、仁徳天皇のあの仁です、ね。人そして仁、そして神、神様の神という神。「人仁神」という事になりましょう、ね。信心をさせて頂くなら、やはり真の人を目指さなければなりません、ね。そこから人徳もついてくるわけです、ね。私は仁というのは、その普通人間の人ですね、が少し内容が向上したものだ、というふうに昨日は感じました。』
 だからこの仁の間はです。人からは例えば信用されるような素晴らしいと、いう人柄である、と言われても思われてもです。それはおかげにはつながらない、という事、ね。そこからもう一つ次の神、いうなら神心です。神、ね、だからこの辺のおかげを頂いていく、という事が、なら霊長としての値打ちを高める手立てとは、んなら一体どういうような事か、と。
 それをあってるかあってないか、という事を、日々検討していくのが、合楽理念をもってすると、ちゃんと答えまで出てくる、という事です。あ、今日の生き方は間違ってなかったな、今日の生き方は有難い一日であったな、と。いや間違っておった。けれどもそこにはお詫びをさしてもらう。いうならばコントロールが出来て、いうならば出来んけれ出来たかのようにして今日一日を締め括る事が出来る、というような生き方を身につけていく、という事、信心とは。
 『私はこの頃どういう事か意味はひとっつもわからなかったけれども、御心眼にいろんな時に頂くのですけども、「高松和子先生がジーッと私を見つめているところ」を頂くのです。その見つめておる事がですね、もう例えば今日なんか頂いて、御理解を頂いて、どういうふうにこの御理解を頂こうか、と思ったら、それこそジーッと見つめとるのが、あゝいう心の状態にどうしてなれるだろうか、と、も、惚れ惚れと見つめておる、という感じのところを頂いたんです。
 それでハハァーこの頃いつもあゝいう御心眼頂きよったが、こういう事ばいな、と思った事は、高松という事は、ま、ここで言う最高の信心、という事であろう、ね。和という事は和賀心の和ですから、もう最高の、いうならば霊長としての値打ちを全うされたのは教祖生神金光大神様であろうと思うた。いうなら教祖の神様が大坪総一郎の心の中を、いつもジ~ッと見つめておってくださる、ね。ある時にはハラハラしながら、あっそげなこっちゃないが、というような見方をなさるかと思うと、今日あたりの場合は、もう惚れ惚れとして見つめておられる、という感じであった。ね。』
 いよいよ霊長としての値打ち、も、そげな事が思えれるだろうか、というような事を思うておる。いうならば神様が思いなさるだろう、というような思いを心にいっぱい頂いておる時なんかは、高松和子先生、がそれこそ惚れ惚れと見ておる、見つめておる。だからいつも見つめられておるんだ、という生き方からです。自分の心がいつも、いうなら改まりに改まり磨きに磨きしていかなければならない。そこに霊長としての値打ちは、いよいよ発揮される、という事になります。ね。
 霊長としての値打ちをいよいよ高めていく、という事は、勿論御徳を頂いていく、という事なんです、ね。皆さん信心頂いておって人人人です、ね。人仁神という、自分はどこの仁におるだろうか、と、いうふうに一つ思うて見て、勿論一遍じゃ出来ませんけども、そこんところはお詫びとかお願いによって一つのコントロールさせて頂きながら、いうならばいよいよ神心。生神金光大神を目指さして頂いての仁になっていく、という事は、取りも直さず霊長としての値打ちをいよいよ、ね、いうならば、いうなら値打ちを、価値観を作っていく事になるのです、ね。
 いよいよ和賀心が神に向かう、と、いうのは我が心がいよいよ神心に近づいていく、と、神心に、いうならば、ま、同化していく、というおかげ。そして、ね、人はわかりません。ニコニコしてござりゃ心もニコニコしてござるかと、ようにしか思われませんけれども、神様が御覧になると、それがわかる。その心をいつもジッと、こ、みつめられとるような気持で、本気で霊長としての値打ちをね。いうならば価値観を、いよいよ高めていかなければ、人としての価値観、そしてそれが神様への価値観に変っていくところに御道の信心がある、と思うですよね。どうぞ